わたくしはスポーツがキライです

たいへん性格の悪いことを書きますと、わたくしはスポーツがキライです

カラダを動かすこと、たとえばジョギングをしたり筋トレをしたりすることはキライではないですし予防医学の観点から日々採り入れるべきと思っていますが、こと「スポーツ」がキライなのです。
「スポーツ」、この言葉のもつ独善的な様相がキライでニガテです。

わたくしは学生のころ体育がニガテで、これは運動神経のなさがすべての原因ではあるのですが、鉄棒は失敗しボールは蹴れず泳ぐことなどもってのほか、目も当てられないこのようすを、他の児童や生徒の前に披露しなければならない恥ずかしさと情けなさ、なんなら嘲笑もあったと思います。こんな屈辱が「スポーツ」の名のもとに正当化されてしまっていることが理不尽でたまらなくイヤでした。しかも「スポーツ」は原則的に集団行動なので、他の児童や生徒にみずからの失敗等で迷惑をかけることもとにかくイヤでした。
数学ができないとか英語ができないとか、他の教科の「できなさ」はあまり他の目に触れられることはないうえに他の児童や生徒に迷惑をかけることはないと思われ、さらにいうと各科目の「できなさ」はプライバシーの一環という考え方もあったのですが、なぜか体育は「できなさ」に対する配慮はなかったと思います
なぜならおそらく、基本的にはみんなできるから。みんな教えられなくてもできていたから。「ふつうできるでしょ」の世界だから。
体育はできて普通、数学英語はできなくて普通、そういうのおかしくないですかね。こちとらぜんぶできないわ!!!!!!!!!!!!!!!

そういう暗澹たるわたくしの思いとは裏腹に、「スポーツ」は感動とかそういうのとセットにされ、この世界のただひとつの「善」みたいな雰囲気すらある。あれだけ問題山積のオリンピックでさえ「平和の祭典」とか言われている(まあ企業収益とか放映権とか既得権益とか、そういうのと一緒くたにされて純粋にスポーツを楽しみたい人がかわいそうですけど)。「スポーツ」に背を向け異を唱えれば非国民扱い。
「スポーツ」、ほんとうに手放しに素晴らしいものなのでしょうかね。スポーツ全般ができないマイノリティなわたくしの人権みたいなもの蹂躙しつづけたのです。少なくともわたくしは、キライです。

極めつけは勝っても負けても「感動をありがとう」とか言い出す始末。うるせ〜。
「感動」ってその個人の主観的な思いでしかないから、礼をいう感覚がまったく解りません。勝手に「感動」しているだけなのに。
これは「スポーツ」する側ではなく、「スポーツ」を鑑賞する側が自己陶酔しているだけではあるのですが、こういう雰囲気を醸成する下地には、結局「スポーツ」の独善的な様相が多分にあると思います。

こどもとか学生のころは言い出せなかった「スポーツ」がキライ(それもおかしい)、40歳目前にしたいま、フラットに考えてみてもやっぱりわたくしは、あくまでわたくし個人は、「スポーツ」がキライです。
「スポーツ」が好きな人は、そのまま好きでいてください。

だいたい「スポーツの日」ってなによ
だいたい「スポーツの日」ってなによ

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