根深い問題

自宅にキャベツと玉ねぎが残っていました。
キャベツと玉ねぎを使用した料理で、かつ手軽に作れそうなものといって「焼きそば」が思い浮かんだわたくしは、「キャベツと玉ねぎがあるから、食事は『焼きそば』がいいんじゃないかな」と妻に提案しました。とても軽い気持ちで。

すると妻は「玉ねぎは焼きそばに入れないでしょ。なに考えてるのよ」と。えっ、そうなの?

野菜がキャベツのみだと寂しさもあり、せっかく余っている玉ねぎがあるのなら、それを入れたほうがよいのではないか、ただそれだけの思いでした。必須ではないです。なくてもよい。わたくしはそう繰り返しました。「玉ねぎが余っても仕方ないし」。
それに対し妻は「なに考えてるのよ」と、再度 思考そのものへの批判。思考はいち個人の論理的存在と仮定すると、人格/人間の批判とも受け取れます。

続けて妻は、「じゃあ屋台で売ってる焼きそばを想像してみて。そこに何の具材が入っている?」と聞いてきました。

「まあ、そばだよね」
「具材ではないけど、そうだね」
「豚肉」
「そうだね」
「キャベツ」
「せやな」
「…にんじん」
「ん〜…、まあ入ってるか」

にんじんで妻は難色を示しました。根菜がNGなのか…?

「あと、玉ねぎ」
ちがう!
「ちがうって言われても…」

この閉塞感あふれるやり取りはなんなんでしょうか。
「玉ねぎ」って言えば不正解だし、言わなければ「ホラ玉ねぎは入れないでしょ」になるのでしょう。谷底に向けて線路が途切れているトロッコに、ムリヤリ乗せられているイメージ。

その日の食事は確か結局「ナポリタン」とし玉ねぎは消費され、キャベツは別の日に繰り越されました。
焼きそばに玉ねぎが入るのと、ナポリタンに玉ねぎが入るのは、どちらもそんなに変わらないような気もするのですが…。

なお、この「焼きそばに玉ねぎ入れる入れない問題」は、結構根深い問題のようです。

根菜だけに。根菜だけに、ね。

(参考)カップ焼きそばの最高峰
(参考)カップ焼きそばの最高峰

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