【本】#057 時間と自己 / 木村 敏

時間と自己
時間と自己

「時間って何なんだ」「自己って何なんだ」と常に気にしているわたくしですから、この本を手に取るのは自然です。

精神科医である著者が、臨床治療での経験と哲学の知見から「時間と自己」の連関について考察し論じる本書。時代背景もあったのでしょうが、難しい言い回しの中に「なるほど!」という知的興奮もあり、読み進めるのが辛いものの読み進めていきたいという不思議な印象でした。

ざっくり本書では「時間とは何か」から始まり、「祭りの前」的な分裂病親和者の時間、「祭りの後」的な鬱病親和者の時間、そして「祝祭」的な精神病理(癲癇や躁)の時間の構成で「時間と自己」に迫ります。昭和57年(わたくしと同い年)刊行の本書ですので「分裂病」とありますが、現在では「統合失調症」と言われていますね。
いわゆる「時間」は運動の連続を客観的定量的に示したものに過ぎず、物理的実体が存在しないワケですしそもそも運動の連続とは主観的なものですから、それを概念としても考えることもなかなか難儀なものです。その「時間」を「自己」という精神世界に同化して考えてみるというねらいが、おもしろいです。

分裂病親和者は異なる自己の「あいだ」にある自己をとらえらないため複数の自己の同一自己性を定義できず、つまり「いまからの世界をいままでのわたくしにアジャストすることが困難なため」、常に「未来」に生きているといいます。
何のこっちゃではあるのですが、何となく解る気もします。いまの出来事を観測するためには結局、過去の出来事との答え合わせが必要です。そこで経験してないもの、そこにないものが「未来」であり「未知」である、そういうことです。
分裂病親和者は複数の異なる自己、いろいろな自己をうまく統べることができないため、かつて創りあげた自己がどうだったかを検索できず、過去との答え合わせがニガテです。よって常に「未知」の世界にいるということになります。
これを著者は「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」としているのです。おもしろい。

いっぽう鬱病親和者は常に「過去に囚われて」生きていて、「自己の役割との不一致、自己の自己性に遅れをとること」を怖れているといいます。「いままでの世界がいまからも続いていくこと」が正しいことであると希求し、それすわなち自己の役割との一致性であるのですが、ひとたびそれが崩れると身体に悪影響を及ぼすとあります。
まるでわたくしの性格を顕しているかのようなこの鬱病親和者。わたくしが将来に対していだいている不安というのは、「何が起きるか解らない」ということより、それによって「いままでの世界がなくなってしまう」ということです。別に「いままで」が維持できるのであれば、何が起きてもいいし未知なことも楽しめます。
つまりわたくしは「未来」にも「現在」にも生きておらず、「過去」に生きている。非常に解りやすいです。
これを著者「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」としているのです。おもしろい。

そして「未来」でも「過去」でもない「現在」が永遠性を帯びるのが、癲癇(てんかん)発作時です。
これはちょっとよく解りませんでしたが、癲癇発作中はたしかに過去とも未来とも切り離したところにいるように見えるので、「時間と自己」という点ではそうなのかもしれません。
これを著者は「イントラ・フェストゥム(祭りのさなか)的狂気」、すなわち祝祭的としています。

時間という「解っているようで何だか解らないもの」に自己という「解っているようで何だか解らないもの」を掛け合わせてみたところ、「何だか解らないけど何だかおもしろい」。本書を読んだ感想はこうです。
この「何だか解らないけど何だかおもしろい」は、デビュー前のとんねるずを唯一評価した芸能人であるタモリさん(タモさん(タモさま))の言葉なのですが、図らずもタモリさん(タモさん(タモさま))の金言が出てきてしまいましたね。つまり、本書もオススメです。

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