あの夜、見知らぬ人の善意を、わたくしは駅のゴミ箱に投げ捨てた。それはおそらく、新垣結衣さんのものではないから。

ズボンの前ポケットには必ず、リップクリームを入れています。

いつからかは覚えていませんが、リップクリームを常に携帯するようになりました。
とくにクチビルが荒れていなくても出勤前や退勤前など「外に出る前」に「必ず」リップクリームをつけるようになり、これは季節を問わず励行しています。

「継続はチカラなり」とはよく言ったもので、この習慣でクチビルがカサつくことは皆無となり、30代後半の男性としてはかなりのうるおいリップを魅せつけております。スタンダードかつ安価な『メンソレータム薬用リップ』を使っているにもかかわらず、です。

JR武蔵野線から下車しようとシートを立った時、そこに『メンソレータム薬用リップ』が落ちていることに気づきました。

「あれ、わたくしのメンソレータムがポケットから落ちたのかもしれない。いや、もともとこれの落ちていたところにわたくしが座ったのかもしれない」

そう逡巡し始めたと同時に、隣に座っていたおにいさんがそのリップクリームをわたくしに手渡してくれました。

わたくしはその善意をありがたく受け容れ、軽く会釈をし、おにいさんが手渡してくれたメンソレータムをいつものようにズボンの前ポケットに差し込みました。

うん、在(ざい)だね。

ポケットの中にはわたくしのメンソレータムが変わらず存在し、おにいさんが手渡してくれたのは知らない人のそれだったのです。ふたつのメンソレータムがポケットの中で混ざってしまい、どちらがわたくしのメンソレータムか解らなくなってしまいました。
これが硬貨であればまったく問題ないのですが、クチビルに使用するリップクリームですから、知らない人のメンソレータムを使用する危険性はゼロにしなければなりません。

一瞬、新垣結衣さんのメンソレータムである可能性も考えました。その可能性はゼロではありません。新垣結衣さん以外が、その可能性を否定することはできません。新垣結衣さんが「あれ〜、JR武蔵野線にメンソレータムを置いてきちゃったみたい」、そのようにメンソレータムおよび武蔵野線について明確な言及がない以上、このメンソレータムは最高のメンソレータムになる可能性があるのです。論理的には。あくまで論理的には。シュレーディンガーの猫ならぬ、メンソレータムの結衣、ということです。(ここまでめっちゃ早口)

しかし、新垣結衣さんがこのJR武蔵野線を利用する蓋然性はきわめて低く、かなしいかなJR武蔵野線であるがゆえに、おじさんのメンソレータムである蓋然性は俄然高まりました。

そう、このわたくしのメンソレータムのように

だからわたくしは、見知らぬ人の善意を、せっかくのこの善意を、駅のゴミ箱に投げ捨てなければならなかったのです。
わたくしと、わたくし以外の誰かのメンソレータムが、駅のゴミ箱に落ちる音。ふたつの乾いた響きは、雑踏にかき消されました。

そんですぐ新しいメンソレータムを買いました
そんですぐ新しいメンソレータムを買いました

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