【本】#047 日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか / 竹内整一

日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか
日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか

言葉の語源が常に気になっているわたくしですから、この本を手に取るのは自然です。

わたくしは「さようなら」の語源が「さようであるならば」であることはを知っていましたが、本書では、そもそもなぜ別れる際に「さようであるならば」というようになったのか、とさらに掘り下げて論じています。
別れ際に「さようであるならば」と言うのは日本人くらいなもので、例えば英語であれば「See you」、中国語であれば「再見」など、「次の出会い」を見据えた別れの言葉をかけるのが一般的と言えそうです。日本人だけが「さようであるならば」と言って別れる。これは不思議です。

本書では、「なぜ『さようなら』が別れの挨拶になったのか」を、日本の社会、死生観、時間の捉え方、そして哲学、さまざまな角度から論じています。
「さようなら」という言葉ひとつでここまで語れるか! というくらいに幅広い観点で議論が展開され、読めば読むほど「さようなら」という言葉の深さにハマっていきます。

途中、「さようなら」には、「みずから」と「おのずから」の両方を含有している、という論説を読んだ箇所では、思わずヒザを打ちました。
わたしが別れを決め、別れていく。すなわち、「そうであるならば、みずから別れましょう」。わたしは別れを決めてはいないが、仕方なく別れていく。すなわち、「そうしなければならないならば、おのずから別れましょう」。このふたつの意味が「さようであるならば=さようなら」には含まれている、という点。
日本人は別れというものを「自動」「他動」の二種類で正しく解釈し、その上で別れるのは他でもない「わたし」です。このココロとカラダの作用と、それが展開されている時空間における一点、すなわち「別れ」そのものを、「さようなら」の一語で表すとしている。これにはシビレました。

これだけの深さを持つ言葉である「さようなら」ですが、どんどん使う機会が減ってきているそうです。
たしかに、ちょっとした別れであれば「お疲れさまでした」「じゃ、また」なんて言ってしまいます。これは、日本人がある種本能的に「さようなら」の言葉の重さや深さを解っているからなのかもしれません。
その上で、作詞家の阿久悠氏は「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうかが決まる」と言っていました。出会いと別れを繰り返すのが人生ですが、とりわけ いい「さようなら」を言えてきたかどうかが、わたくしたち日本人にとって大切なことなのかもしれません。

「なぜ」に対するアンサーが深すぎましたが、「さようなら」という素晴らしい言葉の価値を改めて知るにはとてもよい本でした。オススメです。

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