ムダな行為は豊かさの証左といえるか

ムダな行為をしてしまうのは、人間なので仕方ありません。
しかし、実際に強烈なのを目の当たりにしてしまうと、「いやいやいや……」と突っ込んでしまうものです。

グループでカラオケに行ったときのことです。
友人はサングラスをかけたまま、『おさかな天国』などを歌っていました。


(参考)おさかな天国

その時点で「なんなんだ」という念がふつふつと湧いてくるのですが、問題はそのあとです。
なにを話しかけようとしたのかは忘れてしまいましたが、わたくしたちがなにかをそのグラサン友人に問いかけました。ここはカラオケボックスなので楽曲の音が大きく、わたくしたちの問いかけは楽曲にかき消されグラサン野郎には届かなかったようです。

「えっ?」と聞くと同時にサングラスをちょっとズラして裸眼でこちらを見てくる友人

「いやいやいや……」

サングラスを外すと、確かに視界はクリアになります。いままで遮光されていた分、裸眼の世界は明るいでしょう。
しかし、それは聴覚とはなにも関係がありません。サングラスだろうが裸眼だろうが、聞こえる音量に変化はない。だったらもうグラサン外しなさいよ。

グラサン野郎が『おさかな天国』を歌うだけで何かが「終了」している感じなのに、「えっ?」と言いながら聞こえる音量を上げるべくグラサンを外し、より「終了」です。

ムダな行為は決してムダなだけではなく、それは豊かさの証左であるとわたくしは思います。必要最低限の行為行動だけで生活するほど、豊かさに欠けるものはありません。
しかしながら「えっ?」と聞きながらグラサンをズラす行為。これも豊かさの証左といえるのでしょうか。

わたくしは考えるけど考えること自体がよりムダだなと思ってもう忘れようと思います。忘れました。

(イメージ映像)「えっ?」
(イメージ映像)「えっ?」

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