旧博物館動物園駅の公開イベントが悲しかった話。

『旧博物館動物園駅』の公開イベントが2019年2月までの毎週末に開催されているので、廃地下駅とかが大好物である友人とわたくしで参加してきました。(ご参考)

ただまあなんというか、わたくしの勉強不足だったのか、思っていたのと違う内容だったので、その残念に思った点を書いておきたいと思います。あくまで、わたくしの個人的な感想です。
すげー長文ですし、ギスギスしています。

京成線の博物館動物園駅は利用者減などの理由で1997年に休止され、2004年に廃止されました。
上野公園の最寄り駅であり利便性が低いとは思えないのですが、長い編成(6両編成)の列車を止められなかったり、古い地下駅ゆえ改修コストがかさんだりなどに鑑み、休止・廃止はやむをえなかったのでしょう。

そんな「都会の廃地下駅」が20年の時を経て公開されるということで、わたくしは以前に参加した「『旧成田空港駅』の公開」の興奮を思い出し、『旧博物館動物園駅』に馳せ参じたのであります。興奮するぞ〜!

しかしながら、そのわたくしのテンションや期待が、今回は間違っていたようでした。

なんか展示されてる
なんか展示されてる
やっぱりなんか展示されてる
やっぱりなんか展示されてる
「公開」の本質はガラス越しでしか見れない上に、そのガラスには自由に「思い出」を残せるように落書きできるとのこと
「公開」の本質はガラス越しでしか見れない上に、そのガラスには自由に「思い出」を残せるように落書きできるとのこと
見に行きたいけど、見に行けない
見に行きたいけど、見に行けない

今回は芸術大学との連携か何かでのイベントとのことなので、「都会の廃地下駅が公開される」というところは、このイベントにおいて本質ではありませんでした。

極めつけに、なんらかのショーが始まる
極めつけに、なんらかのショーが始まる

階段を上手に利用し、なんらかのショーが始まった瞬間に、わたくしはなにかに「敗北」した気がして、悲しくなりました。

人は、役割への期待や認識と乖離した結果を得たとき、往々にしてストレスを感じます。
今回はとにかく、このイベントがわたくしの期待と違った内容だったので、たいへんなストレスを感じました。ポイントを整理します。

■ イベントの「本質」の理解不足

まずはこれに尽きます。

旧博物館動物園駅について(中略)鉄道施設として初めて、特に景観上重要な歴史的価値をもつ建造物として「東京都選定歴史建造物」に選定されています。京成電鉄株式会社では、歴史的価値が認められたことを契機として改修工事を実施し、補修や清掃を行うほか、昨年6月の国立大学法人東京藝術大学との連携協定により、同学の美術学部長でありUENOYES総合プロデューサーの日比野克彦がデザインした出入口扉を新設します。
— 社会的包摂文化芸術創造発信拠点形成プロジェクト
UENOYES(ウエノイエス) 公式サイトより

この文章を熟読した上で、わたくしはこの『旧博物館動物園駅』の公開イベントに参加すべきでした。
つまり、「都会の廃地下駅そのものの限定公開」ではなく、「歴史的価値に芸術を付加したうえで公開」だったのです。これが今回のイベントの本質でした。あくまでアートとしての空間・イベントだったのです。

ここを理解した上で参加したのであればストレスは感じなかったのですが、過日の「『旧成田空港駅』の公開」と同じようなものだと思ってしまっていたのが失敗でした。

■ 理由がないと「公開」できない難しさ

芸術のような「理由」がないと、「都会の廃地下駅」が公開できないということも解ってしまい、これも残念に思うポイントでした。

芸術そのものには「理由」はありません。「意味」「目的」「理由」のないものが『芸術』であると、つまり「論理」の外側にあるものが『芸術』であると、わたくしは思っています。その「芸術」そのものを「理由」にしないと、こういった施設の公開が許されないのかと思うと、それはそれで悲しい。
そして、それであっても公開できる範囲がかなり限定されていたのも悲しく思いました。あの有名な「芸術」作品である「ペンギンの絵」ですら見ることが叶わなかったのも、ジレンマであり二律背反であり、とても悲しかったです。

同行した友人が件(くだん)の落書きガラスを指し、「ここまでが『広報』でここから先が『施設』だ」と言っていて、「なるほどなぁ」と思うと同時に、こういった「事情」が解りやすく見えてしまっている点と、それを「うまく魅せよう」としている点にも、わたくしは幻滅しました。だったらもう、ロープやパイロンで無骨に「立入禁止」としてほしかった。

■ 「芸術」に利用された駅施設

前述と相反する理由ですが、芸術を表現する空間に駅施設が「利用」されていた点。これも残念に思いました。

旧博物館動物園駅は、戦前の先進技術で構築された駅施設であり、わたくしはこれそのものの鑑賞を楽しみに参加しました。皇室の御料地である土地ですから、時代背景もあり、その工事にはかなりの労力が使われたと思われます。
しかし、今回のイベントではそこに作品を「展示」し、そこでショーを「表現」していた点に、わたくしは「敗北」を感じたのです。

芸術を表現するはよい、この空間からイマジネーションが沸き起こるものよい。でもそれは、この駅施設そのもののレゾンデートルとは無関係ではないか。その芸術の表現によって、当時の床タイルの一部は隠され、施設のすべてを鑑賞できなかった。そしてこれら展示され表現されている「芸術」を、この空間においては鑑賞することが主催者側からは求められています。わたくしたちは、主催者側が用意したこれらの「芸術」を、どうしても鑑賞しなければならないのです。

つまりこれは、わたくしのような土木に興味をもつ人間にとっての「敗北」です。

表現を目的とする「芸術」のステージとして利用された、表現を目的としない「施設」そのもの機能のもつ美的価値。わたくしは、後者の方にシンパシーを感じるのです。

■ 相容れないものが、シナジーを発揮できなかった

芸術を表現するならそれ相応の空間をつくればよい。博物館動物園駅は芸術と切り離してもそれ自体に価値のあるものである。その双方が、間違って並存してしまった。わたくしの印象は、こうでした。
個別事象が重なり混じり合っても、シナジーを発揮できていない。わたくしは土木のほうに興味をもっていますから、どうしてもそう思ってしまったのです。ずっと違和感を抱え、悲しい気持ちでイベントを後にしました。

全員がこの博物館動物園駅の公開を盛り上げようと一致団結し尽力していることは、解っています。でもその理解を超えて、いろいろな「事情」が暴力的に襲ってくる感覚でした。

便所の写真
便所の写真
「ワリショー」とかバブル末期だな〜
「ワリショー」とかバブル末期だな〜
きっぷ売り場を比較してもよい
きっぷ売り場を比較してもよい
きっぷ売り場を比較してもよい
きっぷ売り場を比較してもよい

往時のようすが解る資料もあり、それを撮ることで溜飲を下げ、退出しました。

駅入口からきっぷ売り場までの階段
駅入口からきっぷ売り場までの階段

次回もし博物館動物園駅が公開されるのであれば、「ペンギンの絵」と施設の構造そのものを芸術作品として、鑑賞できますように。

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