「お荷物」と最初に表現した人と、それを了解した人

「最初に考えた人」シリーズです。(過去の投稿: 音の鳴るクツ, 水飲み器, 漫符, 股間をカオで隠す)

日本語には丁寧語というものがあり、概ね“御”が接頭語になっていれば丁寧な表現となります。
茶碗は「お茶碗」、水は「お水」、連絡は「ご連絡」。“御”は「お」「ご」など複数の読み方があるのでわたくしはひらがなで書きますが、いずれにしても共通なのが“御”です。

ところが「お荷物」になると、ちょっと意味が異なってきます。

「お荷物」と“御”がアタマにつくと、途端に「足手まとい」「じゃまもの」といった意味が強まってきます。
「荷物」にも当然それらしき意味はあるものの、「運ぶための品物」といった意味が強く、「足手まとい」「じゃまもの」といった意味に捉えることはほとんどありません。「運ぶための品物」としての「荷物」は「お荷物」に変換できますが、「足手まとい」としての「お荷物」は「荷物」に変換できないのです。

まずは「人」を「運ぶための品物(=自分では動くことができない)」とし、さらにそれは「人」なのでご丁寧に“御”をつける。(「ご丁寧」も皮肉が込められていますね)
これを最初に表現し定義した人、すごくないですか? めちゃくちゃ性格悪い。

しかも「お荷物」は、ストレートに言葉のみで構成されています。つまり、送り手/受け手、どちらも「皮肉を込めているな」と了解しているのです。
双方が迷いなく「アイツはとんだ足手まとい野郎だ」と了解しているところがすごい。そうでなければこの表現方法は後世に伝わらない。

丁寧語にある「相手を敬う気持ち」「物品を大切に扱う気持ち」といった背反に、おなじ丁寧語で「皮肉を込める気持ち」。陰湿。
そうであっても、“御”の接頭語ひとつでここまで表現の幅が広がっているという事実には、目を見張ります。やはり「最初に考えた人」、尊敬ですね。

自分で自分を「荷物」と定義してしかも“御”をつけている。これはまた複雑な表現です。
自分で自分を「荷物」と定義してしかも“御”をつけている。これはまた複雑な表現です。

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