意図せぬ志村でコミュニティの真価を問う

会話のなかで意図せず志村けんさんが出てきたその時、それはそのコミュニティの試金石になります。

議論や会話のなかで、同意や事実認定のために「そうです」と言うことがあると思います。「そのとおりです」と。
その「そうです」が、志村けんさん扮する『変なおじさん』における「そうです。わたし(す)が変なおじ(づ)さんです」の冒頭の「そうです」風になってしまうこともあると思います。「あ そうです」であると、より解りやすいですね。
このように、意図せず『変なおじさん』の「そうです」が繰り出されてしまうこと、みなさんはありませんか。わたくしはあります。みなさんもありますよね。わたくしはあります。ありますよね。

意図せず志村の「そうです」が繰り出されたとき、そのコミュニティの真価が問われます。
「あれ? 志村さん?」、あるいは「なんで『変なおじさん』なんですか」という声があがれば上出来です。そのコミュニティは、とても居心地のよいところであるでしょう。
わたくしの実体験において、こういった場合に志村確認が入ったコミュニティは、笑いの多いところであったと思います。みなさんご存知のとおり、笑いが起きるとき、その人やその空間はリラックスできています。コミュニティに笑いが多ければ、すなわち居心地がよい。

なお、意図せぬ志村がコミュニティにおいて無視されたとき、そこには「失われた志村」があるかと思われがちですが、厳密には異なります。
その志村は意図せぬ志村ですので、志村を繰り出した側は志村を意識しておりません。送受信ともに志村を検知しておらず、そこには初めから「志村などいなかった」のです。
あるはずの志村がなくなったときに初めて「失われた志村」は標榜でき、ないものがなかったことを明示し理解させる「志村の証明」は不可能です。「志村の証明」、これは哲学書や論理学書でもおなじみの思考実験ですね。

意図せぬ志村が正しく検知されそれとともに志村確認が入れば「居心地のいいコミュニティ」であり、意図せぬ志村が検知されることがなければ「虚無」
1億2700万人が暮らすこの日本では今日もきっと意図せぬ志村が無視され、そのコミュニティには「虚無」があるのでしょう。

虚無ニティが。

「変なおじさん柄」で検索するとすぐに見つかるいい時代
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