ふりかけ羞恥論

お弁当持参派の後輩(男性)と、お弁当談義に花が咲きます。そのときその後輩は少し、憤慨してました。

「この前Sくんが『ふりかけをお弁当のごはんにかけている瞬間って、なんか恥ずかしくないですか?』と言ってました。いやいや、ふりかけをかけるあの瞬間が至福のときだろうよ、ぼかぁそう言ってやったんですよ」
後輩は鼻息も荒く、Sくんから投げかけられた「ふりかけ羞恥論」を真っ向から否定。というか、なんちゅう会話をしているんだ。

「マツオカさんもふりかけかけているときはやっぱり多幸感に包まれますよね?」
後輩はわたくしに同意を求めてきます。

ふりかけをごはんにかけているときは白飯がふりかけ色に染まっていくのと比例して自身も幸福感に包まれていくけども、同時になんか恥ずかしい感じも解るんだよなあ。恥ずかしさ、確かにある。

「えっ…、まさかの…」
わたくしの意見を聞き、絶句する後輩。おお、ごめんよ。

ふりかけをごはんにかけているとき、恥ずかしい気持ちが生じます。これはなぜなのか。
わたくしはあらゆる事象や物事には論理的な説明がつくと思っていますが(なので、論理的な説明がつかないことを人間はいちばん怖れているのだと思っています)、いまわたくしがわたくしの手でふりかけをごはんにかけることによりわたくしに生じている確かな羞恥心。これに論理的な説明をつけることはできません。「ふりかけ」は恥ずかしいものなのか。いや「ふりかけ」はR-18指定は受けていないハズ。
「ふりかけ羞恥論」は確かにあるものの、それを解釈しようと考察に考察を重ねるほど、白く光る答えは色とりどりの考察の奥底へ沈んでいきます。まるで大量のふりかけに埋もれた、白飯のように。

ただ、これだけは論理的に説明がつきます。「ふりかけは本当に美味しい。なぜならば、ふりかけは美味しさの塊だから」と。

「のりたま」の美味しさにはアタマが下がります
「のりたま」の美味しさにはアタマが下がります

6件のコメント

  1. お母さんにおかずがあるのにふりかけをかけることを否定されませんでしたか?
    その経験をしてるかしてないかの差ではないかと思います。

    1. そもそも実家では「ふりかけ」という文化はなかったですね…。
      そういう意味では、「ふりかけをかける」ということ自体が非日常で、その際どのようなメンタリティーであればよいのかが解らなかったから、恥ずかしく思ってしまうのかもしれません。
      ご意見としては当たらずも遠からず、ですね。

  2. ふりかけの位置づけは各家庭によって
    なかり変わってくるみたいなので
    メンタリティーのグループを一般化して分ける
    というのはかなりむつかしい作業になってくるのでは
    ないかとおもいます。

    一般的に男性はふりかけが好きで
    おかずがあってもふりかけにたよって、
    料理を用意した女性をイライラさせませす。
    我が家も例にもれません。

    1. 家で食事をするときにふりかけかけるのは、もうおかずを用意するのがめんどいとき、あるいはおかず食べきってしまったけど米が残っているとき、のいずれかですね。
      さすがに料理が用意されているのに、さらなるふりかけはないですかね…。
      お弁当は自分で作って持っていってて、冷飯だし彩りも考えてふりかけがあったほうがいいかな、という感じです。

  3. 松岡さんが素晴らしい旦那様であるということがわかりました。

    ところで、本屋にいくと、あれが起こると関根勤がいっていたのはご存知だとおもいます。
    私にも同じ現象が起こっておりました。関根勤抜きにして。

    最近作業のため、ネットカフェをよく利用するのですが、全く同じ現象がおきます。

    4日も、5日もでないことも珍しくないのにネットカフェにいくと、きれいさっぱり出るのです。
    最近その事に気がついて、そういえば以前からそうだった、と気がついたのです。

    松岡さんに是非上記二点を取り上げていただいて論理的に解決してほしいしです。

    1. ありがとうございます。

      本屋さんなどでのあれについては「青木まりこ現象」で一応の解決が見られたと思います。「青木まりこ現象」で検索を…(Wikipediaがすごい長文でした)。
      ネットカフェも通例は大量の本があるので、説明がつきそうです。「トイレがない」「なるべくいまはトイレ行きたくない」の精神的な理由も説明になりそうです。

      マジレスになってしまって恐縮ですが、どうぞよろしくご査収くださいませ。

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